諸々日記

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5月病

の兆候が見え隠れしています(´・ω・`)

あうあうあー

休みの日がなんとなくいたたまれない。
一人で家にいたくない。

かといって土日まで働きたいわけじゃないんだけど。

心がー揺れるーよー
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心の穴

自分の中にある満たされない気持ち、空虚な気持ちは、何かしらで埋め合わせをしないと生きていけない。

勉強、音楽、スポーツ、創作、何かに打ち込むのはそれがやりたい事だからだろうけど、その「やりたい」って気持ちと、心の中にあったであろう虚しさってのは、全部とは言わなくてもどこか繋がっているような気がする。それをする事に充実感を感じたから「もっとやりたい」って思ったんだろうからね。

ここからがふと抱いた疑問なんだけど、その空虚さを埋めるために打ち込むものとして、『恋愛』を選ぶのは果たしてどうなんだろう。
あるのか、ないのか。

人との繋がりに心を救われるのはある。
じゃあ心を救うために人との繋がりを求めたとして、それは幸せになれるんだろうか。

相性というのがあるから、いつかは自分を救ってくれる人に出逢えるかもしれない。
でも救われずに心の穴を大きくしてしまう危険も同じくらいあるだろう。

繋がりに救われるのと、救われるために繋がろうとすることの差はここにあるのかな。
失敗して自分で傷つけて、穴の深さに焦って、失敗して、また傷つけて。そういうスパイラルにはまる可能性があるということ。

一番問題なのは、相手がいるって事だよね。
前に書いたけど、他人の傷は外からじゃ埋められない。手助けはできても、傷を癒すのはあくまで自分自身。その重荷を相手に背負わせることになってしまう。
相手を巻き込んだ時点で自分一人の問題じゃないんだね。

この部分は付き合い方によっても差が出てくるんだろう。
尽くす事で満たされようとするならまだしも、尽くされる事で穴を埋めようとして、それで失敗してたら、ややもすれば相手の穴の方が広がってしまうんじゃないか。


ネガティブな考えばかりだけど、世の中には俺の知らない幸福の形があるはずだから、『恋愛』を心の埋め合わせにする良い方法もどこかにあるのかもしれない。

もしそうだとするならば。
俺もその方法を教えてほしいと、少しばかり思うのだった。
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本当の意味では

人の心を傷つけた時って、謝罪のしようがないと思うんだよね。

どれだけ謝ったって謝りたりない。

こちらが謝るか謝らないかは相手にとっては単なる一要素に過ぎなくて、最終的に許すか許さないかを決めるのは向こうの自由だ。
「謝ったのに許してくれない」なんて、逆恨みもいいとこだ。

俺がふとした時に感じる拭いようのない罪悪感や劣等感はこういう考え方に一因があるのかもしれない。
いろんな人間を傷つけて俺はここにいて、傷つけた過去を変える事はできない。
幼かったな、と自嘲しても、相手にしたらこちらの事情なんて関係ない。自己嫌悪なんて、開き直りと大差ないだろう。
ずっと罪を抱えて生きていかなければならない。



だけど、こういう考え方を持っているからこそ、俺は人を憎み切る事ができない(憎み切らずにいられる)のかもしれない。
許すか許さないかの一存が俺にあるのなら、俺は最終的には「赦したい」と思うから。

人を憎み続けるというのは、精神力が必要だ。
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向き合うということ

不安を感じる時は、自分が何に不安を感じているのか把握する事が大切だ。
知らないと、いつまでも不安の源を消すための行動が取れない。

自分を知るためには、自分と向き合う事が必要になる。
それは時にとても残酷な作業になる。

例えば挫折をした時。
『できない自分』を直視するのは、考えるよりもずっと苦痛な事だ。

やりたい事をできるのはそれは確かに勝利だろう。
でも、やりたい事ができなかった自分と逃げずに向き合えた時、それも勝利の別の形だと思うのだ。
自分の弱さを、誤魔化さず、諦めず、静かに見つめる事ができたなら、そこが新たな始まりとなり、より成長するための一歩を踏み出す事ができると思うからだ。

自分の弱さを直視する。頭では理解できても、本当に難しい事だと思う。
しかし人間は、現実から目を背けて生きる事はできるけれど、現実以外を生きる事はできないのだ。
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人として

感謝すべきことを感謝できないのは駄目だ。

当たり前?
でも考えてみればわかると思う。
好印象を持っていない相手から助けられても
「いやでも、あいつはこういう奴だし…」
と、素直に感謝できない気分になったり、そんな自分を正当化したことはないか。

たとえその後相手を憎むことになっても、
裏切られたと感じたとしても、
嫌いになっても、
自分に何かを施してくれた時の相手は善意だったはずだ。
当時の自分が、その善意に少しでも救われたのなら、その後の経緯や自分の好き嫌いで、当時の相手の気持ちまで否定してはいけない。
嫌いな相手から受けた施しも同じこと。
そこに『善意』が存在するなら、それは事実として受け入れなければならない。

感情のフィルターで歪めると、相手は
「せっかくやったのに…」
と少なからず不快になり、そんな相手を見て
「やっぱりあいつはこういう奴だった。感謝なんてしなくてよかった」
とほっとする、そんな負の螺旋が出来てしまう。
その螺旋を作っているのは自分なのに、その責任を相手に転嫁することになる。
それは、相手を嫌いになった経緯にどんな正当性があっても、自分を下げる行動であることは間違いない。相手を責める権利がなくなる。
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